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東武熊谷線は東武唯一の非電化路線として、1983年(昭58)まで営業していた。

東武熊谷線は1942年(昭17)に群馬県太田市にあった中島飛行機に軍需物資や人員を輸送するための国策線として着工された。計画は国鉄高崎線熊谷から妻沼を経て、東武小泉線の西小泉を結ぶものだった。1943年(昭18)には先行して妻沼まで開通したが、戦中の資材不足の中、熊谷線のレールは複線だった日光線の下り線のものを外してきたものが使われた。その後も物資が不足する中、利根川の橋梁の橋脚と両河岸の築堤の完成にこぎつけたが、1945年(昭20)5月に戦争の激化にともなって工事が中断され、そのまま8月15日の終戦を迎えた。

戦争が終わると所詮は軍需路線で、利用客は減少の一途をたどる。妻沼−西小泉までの未成線区間の延長も棚上げされた状態が続く。しかしながら、東武も当初は全線貫通に乗り気だったのか1945年(昭20)5月から工事延長申請を9回行ったが、1974年(昭49)に営業廃止を申請して未成線区間の延長を断念してしまった。なお、利根川にあった、未成線の橋脚も熊谷線営業区間廃止前の1980年(昭55)に撤去された。

一方営業線の方の経営も輸送のピークは戦時中で、それ以降は坂道を下るように減少の一途をたどり、1983年(昭58)5月31日に営業区間の熊谷−妻沼間も廃止さた。

実は利根川河畔から、西小泉までは熊谷線の未成線と並行して、利根川で採取される砂利を輸送するための貨物線の仙石河岸貨物線が1926年(昭14)から営業されており、熊谷線の未成線区間の営業廃止になってしまった地元はここにのぞみをかけたようだが、こちらも貨物取扱量の減少により1976年(昭51)に廃止されてしまった。地元は仙石河岸貨物線の跡地を遊歩道として残し、妻沼への延長の望みを残したと言われているが、後の1983年(昭58)には熊谷−妻沼間の営業線も廃止され東武熊谷線そのものも歴史に埋もれてしまった。

昭和29年から働いて、「かめ号」の愛称で親しまれていた、湘南型2枚窓の2000系気動車は1両が妻沼駅跡地に隣接する妻沼町中央公民館に静態保存されている。

 

 

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