第19回山寺会談 |
新潟から私鉄が無くなる。1999年はそんなもの寂しい年になりそうだ。僕の知っている時代では新潟には新潟交通、越後交通、蒲原鉄道の3社があったはずなのだが、越後交通は廃止された。そして、今年、新潟交通と蒲原鉄道が同時に廃止される事になった。
新潟交通は1929年、設立された中之口電気鉄道がルーツ。1932年に新潟電鉄と改称し、1933年に東関屋−燕間が開業した。当時は、まだ新潟駅に乗り入れてなかった国鉄越後線に先行すべく新潟駅方面へと延伸する計画で、燕まで開業した同年に県庁前−東関屋間の路面区間が開業した。その後も新潟駅への乗り入れは計画されたが、国鉄越後線の方が先に新潟駅に乗り入れ、新潟交通の新潟駅乗入れは宙に浮いてしまった。
戦後、高度成長期には廃止となった他の鉄道たちと同じように、1963年(昭38)をピークにモータリゼーションの進行によって利用者が減りつづけた。更に運が悪い事に市内の基点であった県庁前駅付近にあった新潟県庁は郊外移転してしまった。(県庁前は白山前と改称)その後も利用者は減り続け、特に収支が悪かった市内側と燕側の末端区間の廃止が提案された。
市内の軌道区間の廃止で興味深いのは地元から廃止の要望が強く出されていた事。この白山前−東関屋間には途中に停留所が全く無く、地元には恩恵がない上に、騒音、振動が激しく、渋滞が激しい事が理由とされた。そして1992年、あえなくこの路面区間は廃止された。翌年、その後を追うようにやはり利用が低迷していた末端の月潟−燕間が廃止され、現在の姿に至っている。
路面区間の廃止後、鉄道とバスが一体となった、レール&バスシステムの導入や施設の近代化、合理化を進め、存続の努力がなされてきたが、1997年には本格的に全線廃止の話が出てきてしまった。この廃止、実は1998年の冬に行われるはずだったが、地元が強い難色を示したことにより延期されていた。しかしながら切り札とされた新潟県からの補助を拒否されたため、存続が難しくなり。廃止が1年延びただけで、今回の廃止の発表となった。