先に述べたとおり、国鉄岩日線は1963年(昭38)までに現在の錦川清流線の終点である錦町までが完成している。それより先の区間は1962年(昭37)に錦町−日原間が調査線に編入され、1964年(昭39)には工事線となった。実際の工事は先行して錦町−六日市間が1965年(昭40)に鉄道建設公団の手により着工された。工事の大部分が完成しておきながら、AB線のため、1980年(昭55)全国のほかの36路線とともにに工事が凍結されてしまった(よく言われる55年凍結路線)。

一方、既に開業していた錦町までの岩日線区間も第2次特定地方交通線に指定され存続の危機にさらされる事になる。それを受け、地元ではイベント列車の運行や地域イベントの開催するなどの熱心な乗車運動が繰り広げられ、期間中のイベントとしては成功したようだが、結局利用者の定着には結びつかず、1985(昭60)年度には輸送密度が1,000人を割ってしまう事になる。鉄道としての存続は厳しいとの調査結果だったようだが地元の熱心な鉄道へのこだわりにより、1987年(昭62)4月1日に第3セクターの錦川鉄道株式会社が設立され、同年7月25日から営業を開始した。

その間、岩日線の存続が優先され、岩日北線の計画はストップした状況が続いていたが、錦川清流線の開業後の1988(昭63)年12月に錦町清流線を育てる会が「岩日北線に関する委員会」を設置し、すでに路盤が完成している六日町までの区間を延長できないかの調査を始めた。しかし翌年には現在の清流線の厳しい経営状況の中、鉄道として延長開業しても採算がとれないとして、同区間の延長を断念している。以後、岩日北線の遺構の処理は錦町と六日市町にゆだねられる事となる

この岩日北線の未開業区間沿線には雙津峡温泉があり、多数の観光客が錦川鉄道の主催するイベントで錦町からバスで乗り換えて向かっているようである。錦町ではこの動きに目を付けて既にほとんどが完成している岩日北線の路盤を利用して、何とか公共交通機関として残せないかと模索している。1995年(平7)から1996年(平8)年にかけて地元TYSテレビ山口による地元への放送やTBSによる全国放送等で何とかこの設備を生かせないかとの意見を募集したところ、トロッコバスやサイクリングロード、果ては流れるプールなどの珍意見も出たようだが、公共交通として残したいという錦町を満足させる題材はまだ無いようである。

一方、六日市町側では、この遺構の処分を決定し、一部を取り壊して公共住宅を建設してしまった。六日市町側ではこの路盤の有効活用さえも断念したようである。