exit.gif (1184 バイト)ホーム   back.gif (1917 バイト)序章に戻る   名羽線の計画図を出す

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建設の経緯 

名羽線は宗谷本線の名寄から朱鞠内を経て羽幌線の羽幌まで至る予定であった路線である。そのうち名寄−朱鞠内間(名雨線)は1941年(昭16)に開業し、深名線に編入されていた。
  戦後の建設は公団が国鉄から引き継ぐ形で工事が開始された。羽幌近辺は今やすっかり日の目を見なくなってしまったが、かつては羽幌炭坑が隆盛をみせており、羽幌線の築別から築別炭坑の間で羽幌炭坑鉄道が営業していた。一方、朱鞠内から羽幌にかけての名羽線は、険しい地形や気候のため、なかなか工事の開始に至らなかったが、この羽幌炭坑の隆盛ぶりから峠越えの区間も1962年(昭37)に着工された。
  名羽線は羽幌炭坑鉄道の曙に接続される形で工事が進み、建設開始から7ヶ月で三毛別までが完成した。この時から国鉄は非営業の路線としてであるが、石炭と資材の輸送が暫定的に開始された。三毛別には今でも当時使っていた石炭ホッパーが残っている。ちなみに羽幌から曙までは、羽幌炭坑鉄道とは別線で計画されていたが、羽幌炭坑鉄道の曙に接続する形がとられ、羽幌−曙間は着工されていない。ただし公団の資料では、路線のうねり方が羽幌炭坑鉄道の廃線と一致しているので、羽幌炭坑鉄道の廃線を改修して使う予定だったものと推測される。
  三毛別から先は1966年(昭41)に路盤工事が完成し、上流から朱鞠内に至る山越えの区間も1966(昭41)から着手された。
  しかし、建設中の世の中の動きは速かった。エネルギー革命のあおりで羽幌炭坑は1970年(昭45)に閉山し、同時に羽幌炭坑鉄道も廃止された。それに続いて羽幌線の方も輸送需要の落ち込みが激しくなり存続が危ぶまれるようになった。そんな中でも細々と予算が投入されていたが、羽幌側と朱鞠内側を結ぶ全長3225mの苫竜トンネルも含めて全体の80%強が完成した所で昭和55年を迎え工事が凍結された。
  80%以上が完成し、美幸線と同様に完成まであと一息だったと言われているが、完成していたとしても、両端で接続する羽幌線(1987(昭62)廃止)、または深名線(1996年(平8)廃止)と同時期に廃止された可能性が高い。

見所多い羽幌側

  名羽線の特徴は何といっても一般車が通れる並行道路が無い事につきる。両側とも途中まで林道が並行して走っているのだが、途中にゲートがあり、一般車はそこで足止めを食らってしまう事になる。所轄の営林署に申請をすれば廃線跡の調査という名目でもゲートの鍵を貸してくれるようであるが、そうなると気楽に散策という訳にはいかなくなってしまうであろう。
  宮脇俊三さんの「鉄道廃線を歩」くの3巻で名羽線の未成線が紹介されており、それを見る限りでは、羽幌側の方が立派な構造物が残っているようである。また羽幌炭坑や羽幌炭坑鉄道の廃虚など見所も多い。「鉄道廃線を歩く」の記事の中で最も衝撃的だった内容は、採石業者がダンプの専用道(名羽線道路)として使っている個所であった。特別許可を得て取材した(一般者の許可は難しい模様)とあるが、ダンプが鉄道用の高架やトンネルを次々と抜けていく様子は迫力があり、圧巻であった。林道は羽幌二股ダムの北側をかなり蛇行して進んでおりかなり道が悪そうだ、業者はショートカットする名羽線の未成線に目を付けたのだろう。
  今回は残念ながら見所が多いはずの羽幌側に行く事はできなかったが、次回、夏に北海道へ行く機会があったら是非行ってみたいと思っている。

面影残す深名線

  序章で述べたとおりの取材不足で再取材をする事になったのだが、困ったのはどうやって再び北海道へ行くかであった。8月末の集中豪雨で、上越線、東北線共に寸断され北斗星は常磐線経由の不安定な輸送状態だったし、何よりもムーンライトえちごが運休していた。18きっぷを使った日本海側の黄金ルートは使えない。かろうじて帰りのプランに常磐線経由が使えそうだ。18きっぷは9月10日(木)までそんな中、バイトが日曜の午前中と水曜の午後に入っている始末で、行きは飛行機で飛ばざるを得ない状況であった。但しあと半年、スカイメイトが効く年齢なので1万5千円あれば旭川までは行ける。全くこれが自分の悪いところでもあるが日曜日のバイトを済ませ、夕方には旭川行きのJASの最終便に乗っていた。
  少々気流の状態が芳しくなくだいぶ揺られながら2時間程の飛行で19時には、旭川に着いてしまった。全く1回目の調査は小樽まで30時間もかかったのに、夕方までバイトをしていたとは思えない時間に旭川に着いてしまった。江原氏に電話したところ30分で迎えに来てくれるとの事だった。ターミナルに着いたらすぐに便乗できるようにわざわざ玄関に近い所で待っていたのに駐車場に停めたと携帯に伝えてきた、
「駐車料金払っちゃったの?」
と切り替えしてみると何とこの空港は駐車無料だとの事。地方空港でも1日1000円は取るのに、この空港は無料で止め放題である。もう7時を回って上りの最終便が出る時間だが駐車場には結構な車が止まっている。皆、泊りがけで出かけている車だのだろう。1時間400円をとられ、1日泊めると5000円を越えてしまう羽田の駐車場の事を考えると何て恵まれた環境なのだろうと羨ましく思った。
  この日は江原家で仮眠をさせていただき次に日に取材に出る事にした。

  次の日は朝から行動した。名羽線を調べるに当たって、困った事は並行道路がない事である。朱鞠内側で調査した後は一旦、朱鞠内から添牛内へ引き返し、霧立峠を越えて、羽幌まで、ちょうどCの字型に大迂回せねばならぬ事である。丸1日あれば、両方とも調査できるかもしれないが、前回やり逃した美幸線と興浜線の調査もある事を考えると名羽線は朱鞠内側から行ける所まで行くのみにする事にした。旭川鷹栖インターの裏手から道道72号で幌加内へ抜ける。深名線の時代は旭川から幌加内は結構遠いイメージであったが道路の方はまともな道道が抜けており、1時間もかからずに抜けてしまう事ができた。

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深名線はレールこそ剥がされた
ものの面影をよく残している。
(朱鞠内)

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  深名線は僕らの世代にはとりわけ思いで深いものがある。特定地方交通線は大方1980年代の中盤に整理がついてしまい、僕らの世代のファンが長距離の旅行をするようになった頃は、旧客どころか50系客車が姿を消す直前で、すでに合理化が進行した形の鉄道になっていた。そんな中深名線は最後の砦のような秘境を行く路線であった。それが廃止されたのが1995年(平7)の9月。最後の冬に乗りに行ったものであった。そして1996年(平8)には廃線となって変わり果てた姿をも見た。
  幌加内はバスターミナルが国道沿いの新ターミナルに移ったが、旧駅跡も駅前バス停としてそのまま残されバスが乗り入れてくる。幌加内の駅舎は誰が管理しているのか、きれいに整備されており、旅人が記したノートが置いてあったりしている。
  幌加内から更に北へ朱鞠内を目指す。添牛内で霧立峠を越えて羽幌へ向かう国道40号を分け、279号を北進する。しばらくもの寂しい所を走るが急に町が開ければそこが朱鞠内。駅舎はそのまま残されていたが幌加内と違って中に立ち入る事はできない。かつてのホームに降り立ってみると、すでにレールは剥がされ腕木式だった信号機もなくなっている。しかし駅の雰囲気だけはよく残っていた。
  朱鞠内駅跡の次はせっかくだから朱鞠内湖まで出てみる事にした。駅の先で道道へ左折し、湖畔駅跡を右折する。右にダムを見ながら下ると朱鞠内湖に出る事ができる。大雨が降ってから放流したのか、水はかなり少な目であるが、天気もよく眺めが良い。今は観光地になっている朱鞠内湖こと雨竜ダムも北海道独特のタコ部屋労働や朝鮮人の強制労働により作られた悲惨な歴史を秘めているのである。

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湖畔駅のホームは骨組だけになっ
ていたがレールは残っていた。

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今や穏やかな佇まいの朱鞠内湖も・・・。

mae.gif (2101 バイト)名羽線(2)自然と同化してゆく名羽線へ


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