更新日02/12/11
ムーンライト松崎
現地ルポ
岩日北線
(山口県、岩国付近)
1997年3月
呼子線
(佐賀県、唐津付近)
1997年8月
道北の未成線
興浜線〜美幸線〜名羽線
(北海道北部)
1998年8月
佐久間線
(静岡県浜松付近)
1999年3月
原則としてここに紹介されている遺構は立ち入り禁止です。(写真は立ち入る事の出来る限界点から撮っています。)万一立ち入った場合は、思わぬ落下物や腐食個所等、未成線の探検には大きな危険が伴います。実際の判断は皆様の判断にお任せしますが、ここに掲載されている内容を元に行った探検で生じたいかなる損害に対しても私および葛和田ねっとは責任を負いませんのであらかじめご了承ください。 |
JTBの「旅」誌の1997年7月号の付録として未成線の特集が掲載された。私も未成線問題に取り組み始めた矢先のところだったので興味深く読ませたいただいた。そこで感じたのは、高速鉄道か都市近郊の通勤用鉄道としての目的が見出せないと鉄道の新規建設はできない時代に入ったという事である。
特に興味深いのは、15年の長きにわたり路盤が放置されている、鉄道建設公団が建設したAB線と呼ばれている路線である。なぜ路盤が放置されているかは、鉄道建設公団の設立とその挫折について語らなくてはならない。戦後、1950年代は鉄道新線の建設ラッシュであった。それらの多くは都市近郊ではなく、地方都市と地方都市を結ぶものがほとんどであり、公共交通機関に恵まれない都市を結び、地域間の格差をなくす事が主な目的であった。しかし当時の国鉄は東海道線などをはじめとした幹線の輸送力増強に手いっぱいの状況であり、とても地方線区の新線建設まで手が回らない状況であった。そこで、鉄道新線建設を専門とする特殊法人として、1969年(昭39)に設立されたのが鉄道建設公団である。「鉄道交通網の整備を図り、経済基盤の強化と地域間格差の是正に寄与すること」と高らかにうたい、新線鉄道の建設を開始した。そのあとに1960年代からのモ−タリゼ−ションが訪れるわけであるが、鉄道建設公団が設立された当時は、まだ自動車の普及がすすんでおらず、地方においても鉄道が重要な地位を占めており、鉄道が通っていない地域にとってはまさに「待望される交通機関」であったのである。
しかし、1960年代から70年代に入り自動車はますます普及し、鉄道の利用は減りはじめる。国鉄の赤字も次第に問題化されつつあった。しかし、ここからが特殊法人の悪いところで、そんな社会の動向とは関係なしに新線建設は継続された。気仙沼線、只見線、三江線、予土線などの一部区間は踏切の無い立派な設備である事をご存じだろうか、特に山間の険しい区間がそうなっているはずである。それらの線区こそが鉄道建設公団により建設された区間なのである。只見線や三江線などまさに「人里はなれた」地域であり、今ではその区間を通過する列車も1日3本程度。「本当にこんなところに線路を敷く必要があったのか」と思うが、それでも建設は継続されたのである。
ところが、さすがに1070年代も後半に入ると国鉄の再建は待った無しになり、1980年(昭55)に国鉄再建法が公布され、赤字ロ−カル線の整理が開始される。鉄道建設公団が建設していたAB線と呼ばれる地方線区も開業したとしても、国鉄再建法による整理の対象となる路線がほとんどであり、当時着工されていたほとんどの線区である36の線区の工事が凍結された。「昭和55年」は未開業を語る上でのキ−ワ−ドとなる言葉であり、この時凍結されたAB線を「55年凍結路線」と呼ぶ。 55年凍結路線のなかには55年に凍結された段階で、工事はほぼ完成していた線区さえあり、山間に完成したトンネルや高架橋は放置された。久慈線、盛線、鷹角線、丸森線、樽見線といった線区は第三セクタ−で引き継ぐ形で開業したが、受皿の無い線区の路盤は20年近く経つ今でも設備が放置されている。何にも使われていない立派な高架橋やトンネルが連なる姿を「昭和の遺跡」と皮肉る人もおり、全くもったいない話だが使い道がないのが現状である。 今、整備新幹線が中途半端な形での工事が進んでいる。一部ではトンネルが貫通したとの話も聞くが、国の財政再建に絡んで工事が凍結される恐れもないとは言えない。先行きが不透明な中でも中途半端な工事が進む姿は1970年代の公団AB線の姿に似てはいないだろうか。 |
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