その後の急行津軽急行<津軽>、<八甲田>は一九九三年末の改正で定期列車から姿を消して以来、<津軽>は週末に、<八甲田>は多客期に臨時列車として運転されていたが、マスコミが廃止を大々的に伝え完全に廃止されたものと解釈され、乗車率が良くなかったのか、九五年春の時点で津軽は当初の八甲田並みの多客期のみの運転に、八甲田はお盆と年末などの帰省期のみ運転ののそれこそ淋しい姿になってしまった。今回もプランニングにあたって<八甲田>が運転されていないばかりに、一夜にして渡道することが出来ずに、参加者は皆、かなり苦心していたようだ。今回最終日の三月二三日からかろうじて<津軽>が運転されているようなので乗車してみることにした。 臨時運用となった急行「津軽」 青森には一五時一五分に到着し、ホームへは一六時ごろに行くことにして待合室で夕食のそばを食べたりして時間をつぶした。しばしの休憩の後、ホームへ向かうと、同じく<海峡10号>を下車してからからずっと待っているのだろうか、新聞をしいて雑談をしているグループがいる。僕も<津軽>の自由席の乗車口であることを確認して、新聞を読みながら時間をつぶす。発車30分前になるころには各乗車口にパラパラと人が集まりだした。携帯電話で何やら連絡を取っている人や、カードゲームに夢中のグループなど思い思いに時間をつぶしているようだ。反対のホームからは701系の普通電車がインバーター車特有のモーター音を響かせながら発車していった。それをみて例のグループの少年が 「ネェお父さんあの電車地下鉄みたいな音がするよ。」 と。たしかに発車ベルといい、列車の姿といい東京を思い出させる。あげくの果てには携帯電話のオヤジ……。とそこまで考えてビックリした。例の携帯電話のオヤジ、もうかれこれ二〇分話している。「妙だな。」とおもいジッと聞いていると「ウンウン、そうだね。でー、エーと」との連続で明らかに会話が不自然で、オヤジもわざと人のいるところをウロウロと行ったり来たり。果たして本体は持っていても電話会社と契約しているのだろうか、実に怪しい。 頭上の青森ベイブリッジに明かりが灯るなど北国とは思えないムードのなか583系が入線してきた。車内に入るとワンボックスに一人といった感じの乗車になり、そのほとんどが同業者のようで、あとは地元の飛び込み乗車組が少々といったところだろうか。まずまずの乗車である。一六時四七分まずまずの乗車で<津軽>は発車した。車掌の案内もコテコテの津軽弁で 「よずずうななふん(四時一七分)定刻どおりの発車です。」 とやっと583系全盛の頃を思い出させる雰囲気に出会えた。列車は夕日を浴びポツンとシルエットを見せている岩木山を車窓の友にして津軽平野を走っている。 夕日を浴びる岩木山と津軽平野 弘前を出て車窓が真っ暗になると、皆、おもむろに583系の特権の例の工作を……。とガタガタ始めたようだがどうも勝手が違うようだ。椅子が両側とも固定されていて、引き出せない構造に改造されている。なんとかワイヤーが外れないかと隣のボックスに座っていた少年と奮闘するがボルトできつく締められていてNG。それではとザックをボックスの間に入れて平らにしようと例の工作をするが、なんとシートピッチが広くて平らにはならない。(キハ54の時はギュウギュウだったのに、これはもう一つ入るぞ!)L字形になって寝ると自然と膝が曲がってしまい、足がつまさきまでしか届かずに床に着いてしまうし、かといって真っすぐでは腰の受け場がなく、なんともシートピッチが広すぎてかえって寝づらいとは。あまりの寝づらさに寝たり起きたりで、やっと寝たと思ったら、秋田を出て担当車掌区が替わったのか二度目の検札で強引に起こされ(何で二度も見るんだ!起こすな!)で、大曲あたりでやっと落ち着いて寝たようだ。
翌日、目が覚めると小山を出るところだった。もうこんな所まで帰って来たのかと思いつつ、顔を洗い、歯を研いて下車の準備に取りかかる。隣のボックスの小学生二人連れも起きたらしい。何でも話によれば二人は兄弟で、北海道から出雲市の伯母のところへ行くとのことで、今日は東京を見てから、今夜も夜行(<出雲>何号かは聞き忘れた)に乗るとのことだ。 五時二四分、例の少年がデッキで見送ってくれるなか、大宮駅に降り立った。駅の構内ではサリン事件の影響の警戒なのか腕章をはめた駅員が多数、うろうろしており、何だか物騒なところへ帰ってきてしまった気がする。いつまで運転されるのか、583系の赤い尾灯がゆっくりと朝靄の中に消えてゆく姿は、なんとも淋しい旅の幕切れとなった。 完 |