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南部縦貫鉄道へ行ってきました

ムーンライト松崎
取材日:1997年2月2日(日9

南部縦貫が危ないらしい。そんな噂はここ数年良く聞かれる言葉だった。現存する唯一の”機械式2軸レールバス”それに会いたくて、計画すること3回、いずれも野辺地という遠さが災いして断念している。急行八甲田なき今、気軽に周遊券で行こうという気にもなれなかったのだ。

そんな中、今年1997年はまさに南部縦貫鉄道が廃止されるというニュースとともに年が明けた。皆考える事は同じようで、少なからず古い物に興味がある者は、皆一様に野辺地への計画を立て始めた。そんな中、僕はいまだに決断を下せないままにいた。どう考えても往復に2万円かかてしまう。春休みにはでかい旅行を控えているし、18きっぷでフラッと何処かへも行きたい。「どうせ行ってもテツでいっぱいだしこのまま廃止を待つか!」そう諦めかけていた。


七戸駅で発車を待つレールバス(キハ101)

そんな中、長距離ドライブ好きのサークルの先輩に半分冗談で「南部縦貫が廃止されるらしいですよ、まさか行きませんよね。」と聞く、すると
「よし!行こう」
あまりにも意外な答えだったので
「エッ。いついくんですか」
とただすと
「今夜」
と・・・。「嘘だろ!」と思ったが本気らしい。

少々オーバーに書いたがまさしくこんなノリで、鉄道には興味のない別の2人も加えて、熊谷を旅立ったのが2月1日(土)の夜9時。深夜の東北道を縦列で走る夜行バスを追い抜きながら、約11時間かけて七戸には翌2月2日(日)朝8時過ぎに着いた。

「南部縦貫鉄道」と大書された、古い建物の回りに人影はまばらだった。「廃止が発表されてからはファンでごった返している。」そう聞いていただけに拍子抜けだった。構内にはレールバスがエンジンをかけずに静かに留置されている。

「今日はユッタリと乗れるかな」

そんな野望はすぐに打ち破られた。間もなく、満員状態のレールバスが野辺地から到着し、構内は人(といっても全部レールファン)であふれ始めた。「乗れなくなっては困る」そう思い、慌ててきっぷを買って構内へ入った。「列車なんだから慌てなくても」と思うかも知れないが、定員40名程の機械式のレールバスは定員オーバーは許されないらしく、乗車制限さえ行う事もあると言われていたからである。この日はなかったが、今年の冬休みは乗れない人が出たようである。

待っていたのはキハ101。僚友の102とともに2両しかない貴重なものだ。名板には昭和37年、富士重工とあり、登場から30年以上が経過している。制作コストを減らすため、当時のバスの部品を使用して作られたものだが、このレールバスと同型のバスで営業用として使われているものはすでに無い。運転席には、シフトレバーとクラッチペダルがあり、まさしく古いバスそのものである。

車内は再びファンで一杯になり、運転士が乗り込んできて、「バタン!」とドアを閉める。何と手動のドアなのだ。この辺、女性の車掌が乗っていた当時のバスそっくりである。間もなく「ビィィィ。」と独特の汽笛というかクラクションを鳴らして発車した。「ウオオン・・・。ガクン・・・。ウオオオン」とまさしくバスのシフトタイミングで加速して行く。やはりというか当然というかトランスミッションにシンクロ機構はないらしく、シフトの際はニュートラルに入れた後一度クラッチを繋ぎ、再度クラッチペダルを踏んで次のギヤに入れている。長年この車両と付き合っている運転士はこの辺手慣れた物で、実にスムーズに操作している。ほとんどがバスといった雰囲気の車内にあって、「ゴンゴン・・・。」と連続して聞こえてくる2軸車独特のジョイント音が鉄道車両である事を伝えてくる。2軸車はさすがに乗り心地が悪く、ものすごい振動である。かつてY氏はあまりの乗り心地の悪さに七戸までたどり着かなかったと言っていたが彼の気持ちも分からなくもない。

 

沿線の駅やその周辺には日曜日とあってか、多数のファンが待ち構えている。ホームにいる人は乗ってくる人、写真だけ撮る人様々だが、車掌もその応対で忙しいようである。そう、車掌と言えば良く考えればこの列車・・・乗っているのである。東北本線でさえワンマン化が進む御時世なのに、このローカル赤字私鉄は車掌をのせているのである。ワンマン化の予算もないのか、それとも、いかんせん車両が古く、手動ドアな事もあってワンマン化改造が難しいのかもしれない。会社が常に廃止論議が続いている事も原因かもしれない。

満員のレールバスに車掌、そんな僕らの親の育った時代(それよりも前?)を思い起こすような車内に揺られる事40分、多数のファンが待ち受ける野辺地に到着した。

 


動力伝達が機械式であるため、シフトレバーと
クラッチのある運転台。左のレバーからはエン
ジンへ向かってワイヤーがのびており、「アク
セル」と呼ぶのがふさわしい。


今時、「ワム」や「トラ」等の2軸貨車でしか
見られないような足回り。乗り心地はレー
ルの継ぎ目の振動をもろに拾うため、「ゴ
ンゴン・・・ガタガタ・・・」と非常に素晴らしい。
軸箱と車輪の間にクルマのドラムブレーキ
と同じ構造をしたブレーキが見える。何と
車輪を制輪子で押さえるのではないのだ
(ディスクブレーキではなくドラムブレーキ
とは恐れ入った)駆動は2軸あるうちの片
方のみの軸(野辺地寄りの方の軸)を駆
動しているようだ。

 

 

南部縦貫鉄道の廃止は昨年9月の取締役会で鉄道部門の廃止が決定され、今年1月の株主総会で承認された。南部縦貫鉄道ほど存在の理由が不思議な鉄道はないだろう。私鉄に分類されるものの、株の大部分は七戸町や青森県等の地元の自治体であり、実態は第3セクター鉄道同然である。また会社そのものも1966年に倒産した事になっており、35年におよぶ歴史の大部分を会社更生法による更生会社として生きてきた。

南部縦貫鉄道の開業は1962年、東北本線のルートから外れた七戸町や天間林村などの自治体が中心となって建設された。しかし会社の歴史は開業してまもなくモータリゼーションの渦に巻き込まれた上、むつ製鉄の砂鉄精練の計画中止、十勝沖地震、東北本線の電化にともなうルート変更、筆頭株主だった東北開発の撤退、貨物輸送の廃止、保守用部品の枯渇、国鉄清算事業団からの旧東北本線の路盤の買い取り請求と開業してから現在まで立て続けに不運に見回れている。しかしその度に雑草のように生き残り続けてきたのである。それは一重に七戸町を中心とした地元自治体の執着によるものだが、よくぞここまで生き延びたというのが本当に実感である。

晩年はまさしく空気を運ぶ状況だったようで、1日あたりの輸送人員は100人にも満たない70人。年間でも2万5千500人である。定期の利用者は高校生が10人、通勤はゼロ。利用者といったら、それこそ本当に駅の近くに住んでいる高齢者が利用するのみである。皮肉なことに廃止が報道されてからは、連日多数のレールファンが押し寄せ、休日は臨時便が出る状況のようだ。これだけ人気なら観光資源として乗客を引き寄せる事が出来ないかと思ってしまうが、こういったある程度規模の大きい鉄道を観光を目当てとして集客を望もうとしても、とても採算が合わない。

何度も訪れた廃止の危機の度に不死鳥のように生き延びて来た南部縦貫鉄道だが、”もう本当に限界”のようである。10年ももてばいい20年で限界だろう。そんな設計で作られ、開業以来35年の長きにわたり活躍してきたレールバスには「お疲れ様。」と言いたい。古豪のレールバスの活躍も1997年5月5日までである。

沿線には別れを惜しむファンの姿が


野辺地で折り返しを待つ間に、東北本線の701系が到着した。南部縦貫鉄道の晩年の東北の現況をを象徴するシーンが再現された。

なぜか4年前の30周年記念の記念切符を売っていた


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