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BGM
取材 1998年5月1日、2日
写真

J.Yamada

山田淳一
無印 ムーンライト松崎
BGM 風に揺れる花
(C)taitaistudio
http://www.taitaistudio.com/

5月2日、国道4号を野辺地から七戸に向かって車を走らせる。ゴールデンウィークの谷間とだけあって付近は混み合う事なく、ひっそりとしている。

野辺地の市街地を抜けると左手に高い築堤が現れる。正確には南部縦貫鉄道が国鉄清算事業団から借り受けていたものであるが、南部縦貫鉄道のレールバスが走っていた路盤である。
さらに走り、国道4号を左に折れた所が西千曳の駅である。ここより、純粋な南部縦貫鉄道となり、軌道もか細いものとなる。その、か細い軌道ははがされる事無く、駅舎は板を打ちつけられ、踏切は遮断機の棒の部分だけが外され、使用中止の札がかかっているだけであった。南部縦貫鉄道の休止線はどこもかしこも往時のままなのである。
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南部縦貫鉄道はただの廃線というカテゴリだけでは語り尽くせない。
それはむつ小川原開発の希望と挫折というこの地方の風土を見てきた証人であるからだ。


七戸から北へ30キロ程、まるで北海道に来てしまったかのように錯覚するこの地に、広大な敷地を持つ奇怪な建物が立ち並ぶ。建物の周りは何重かの有刺鉄線で囲まれ、要所要所には監視カメラが目を光らせている。
原燃の核リサイクル施設である。ここが将来、日本の燃料の生産から使用済燃料リサイクルまでを一手に引き受ける大プラントになる予定だ。そして、使用済燃料からプルトニウムを取り出し再利用するための施設として再処理工場が着々とその不気味な姿を現している。


原子力施設が立ち並ぶこの地と南部縦貫鉄道は無関係ではない。この地域は開発の希望と挫折の地である。

1950年代初頭、野辺地地区と東北本線のルートから外れた七戸、十和田を結ぶ路線として建設中だった南部縦貫鉄道は建設資金の枯渇から建設中止の危機にさらされていた。そんな南部縦貫鉄道を救ったのは、むつ製鉄の砂鉄精練計画であった。今は原燃の施設があるあたりで、砂鉄を原料として鉄を精練する計画であった。砂鉄からの鉄の精錬とは今では考えにくい話であるが、天間林村で産出される砂鉄をここ小川原地区に製錬所を作って精練する計画であり、その輸送は南部縦貫鉄道が担当する、その輸送量は年間数十万トンとされた。
ところが、南部縦貫鉄道は七戸まで完成したものの、砂鉄精練計画は採算が取れないとの事で計画そのものがお流れになり、むつ製鉄は解散した。結局、その後の一般の工業団地への転用計画も話しが進まないまま、いつの間にか原子力関連施設の建設へと移行して行ったのである。

  南部縦貫鉄道は廃止された訳ではない、休止路線である。そのほとんどがそのまま残されている。南部縦貫鉄道は最近まで、営業していた事こそが不思議な鉄道である
  建設中の1955年、建設当時の起点であった千曳(現在の西千曳)から坪までの区間が完成した時点で資金難により建設がストップした。この危機を救ったのが前述のむつ製鉄の砂鉄精練計画である。砂鉄精練契約をバックアップする東北開発が南部縦貫鉄道の筆頭株主となり、1962年に七戸まで一気に完成させた。
  しかし開業後わずか3年の1965年に砂鉄精練計画は中止となり、むつ製鉄が解散した。この時点で南部縦貫鉄道は砂鉄輸送の収入を目ろんで建設されており、旅客輸送をあてにしていなかった。さらにモータリゼーションの波がこの地にも到来し、経営は下り坂を転がるように悪化した。そして、1966年会社更生法の手続きをするに至った。名目上は倒産した事になる。 同年7月、会社更生法申請は認められ、東北開発に加え、新たに青森県もほぼ半分を出資し、再出発した。

坪川にて 〉〉〉

坪川も相変わらずだった。今回も同行している山田氏が好きな場所。駅へと続く細い階段の先に止まるレールバスが独特の寂しさを漂わせていたあの場所だ。
階段を上り駅舎の前に立つ。駅舎の先には渡る主を失った橋梁の下に坪川だけは変わらぬまま、静かに流れていた。そして、1台のコンバインがひっそりとうち捨ててあった、あの哀愁を感じる場所には、田植え機がもう1台、加わっていた。レールバスは無事なのだろうか。

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中野にて 〉〉〉

坪川を出て道の上、天間林、中野と進んでいく、道の上と中のではワンちゃんが線路をネグラにしていた。いやいや、飼われているワンちゃんですけどね。
コラ、そんな所で寝てたら轢かれるゾ。
「エッ?」「もう汽車は来ない」って。これは失礼しました。

その後も更に不運は続く。再出発後、わずか2年の1968年5月、十勝沖地震がこの地を襲った。南部縦貫鉄道は32個所で被害を受け、全線に渡って不通となった。しかしこの災難も乗り越えた。同年8月には早くも復旧したのであった。ちなみにこの時には八戸−五戸間で営業していた南部鉄道は廃止となった。
  この年の8月は東北本線の複線電化完成の年でもある。東北本線は現在の南部縦貫鉄道の西千曳駅(当時の東北本線千曳駅)の位置を経て野辺地に向かっており、南部縦貫鉄道はここで東北本線に接続していた。しかし複線、電化にあたって、線路が海寄りに付け替えられ、ルートから外れる千曳駅は移転した。これによって南部縦貫鉄道は東北本線との接続を絶たれる訳だが、千曳−野辺地間の東北本線の旧線を国鉄から借り受ける事になり、野辺地にて、東北本線との接続が維持される事となった。
これらの経費の増額で再建計画は大きく遅れ、また東北開発もその任務を終了し、解散する事となった。筆頭株主が去る事になったのである。この危機も七戸町が筆頭株主に入り、沿線自治体色の強い会社となる事で乗り越えた。この時点で株主は自治体ばかりであり、今で言う第3セクターと呼ばれてもおかしくない状態となった。

多くの危機を乗り越えている間にも乗客は減少の一途を辿るのみとなった、それでも生き残って来れたのはタクシー、スクールバス、給食の調理、運搬等の多角経営のおかげであろう。それらから上がる利益のほとんどを鉄道部門の赤字の補填にあててきたのだ。

  1997年、そのカバーも限界に達した。レールバスを走らせるだけの部品も底を突いた事も理由だ。レールバスは35年前のバスをモデルとして作られた。同年代のバスで営業用として使われているものはもはや無い。更に追い討ちをかけるように国鉄から借り受けていた野辺地−西千曳間の線路を約5,100万円で買い受けるように求められた。あちらも清算が厳しい機関、嫌だと言えば、線路は手放さねばならない。東北本線に繋がらない状態は考えられない。1997年5月、ついに多くのファンに見送られながら、南部縦貫鉄道はその営業を終えるに至った。ただし廃止ではない、休止として営業を終了した。

鉄道がなくなっても会社は存続している。それが、休止から再開へほのかな頼みを繋ぐ命綱のようである。

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盛田牧場前にて〉〉〉

  七戸までもう少しだが、盛田牧場前に寄り道してみる。馬が放牧されている広大な敷地の牧場を抜けていくと、小さな踏切りがあった。踏切りの七戸寄りには小さな駅舎があるが、反対側の空き地に車を止め、野辺地方を望んでみる。
  レールバスがゆっくり谷を下り、そして今度は荒い息遣いで登ってくる。廃止間際に雑誌によく出ていた、あのV字谷である。
  あたり一面雪景色の中、坂を登ってくるレールバスをズームレンズで捕らえる。運転席の窓内側にはタブレットが刺さり、眼鏡をかけた初老の運転士が運転するレールバスの姿が目に浮かんでくるようだ。
今はその主は来ない。ただあたり一面のタンポポが風に揺れているだけ・・・。

 

七戸にて 〉〉〉

  古めかしいコンクリート製の建物には相変わらず「南部縦貫鉄道七戸駅」と大書きされており、建物の中も往時のままだ。南部縦貫鉄道の本社がおかれていた七戸駅である。
  広い構内はそっくりそのまま残され、駅本屋の前にはぽつんとレールバスキハ102が留めてある。

  レールバスは無事だった。

車内は自由に立ち入って、触れる事ができる。運転席にも座れる。クラッチレバーに足を下ろすとズシリと重いが、カクンとクラッチが切断されていく感触が感じられる。
しかし、あまりにも、無造作に置かれすぎてはいないか。
「もしや庫内で動かしているのでは。」
と、不審に思って駅員というのが正しいのか社屋の中の人にに聞いてみた
「ええ、ゴールデンウィーク中は展示する事にしたんで出し入れしているんです。なにぶん1人でやるものですから一番出しやすい車両しか出せませんが、事前に希望を言っていただければ、好きな車両を出しておく事もできますよ。」
南部弁だったが多分、そういう意味なのだろう。
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レールバスが元気に動ける体である事を知るにつけ、うれしい反面どことなく時代錯誤に陥った感じもした。実は駅員のこの言葉、深い意味を持っているように思われる。
東北新幹線は来世紀に入ってまもなく八戸に達し、遅くとも2020年頃には青森に達すると言われている。将来七戸に新幹線が止まるようになったらこの線路が復活するのだという。その証拠に今年1998年度も運行休止の延長の申請が行われた。
そんな果てしなく、またあてもない希望のもとに何も線路をはがす事なく、ひっそりと休んでいる。一体いつの事になるのか、気の遠くなる話だが、七戸駅にはそれをさも当たり前に開業が明日のように受け入れられる空気があった。

文:ムーンライト松崎
1998年7月10日


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PHOTO:Jyunichi Yamada
Atsushi Kawasaki